浦和地方裁判所越谷支部 昭和56年(ワ)295号 判決 1984年12月28日
原告
株式会社田中商事
右代表者
田中亀松
右訴訟代理人
柏原晃一
馬場孝之
被告
草加市
右代表者市長
今井宏
右訴訟代理人
加藤長昭
主文
一 被告は原告に対し金一四一〇万五三六一円及びこれに対する昭和五七年五月一日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを一〇分し、その八を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。
四 この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求める裁判
一 請求の趣旨
1 被告は原告に対し金七〇五二万六八〇四円に及びこれに対する昭和五七年五月一日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言。
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求の原因
1 訴外浅井茂(以下「茂」という。)は、昭和五五年五月一〇日午前八時三〇分頃、被告草加市役所印鑑証明係の窓口において印鑑証明係の職員に対し、茂の義父である訴外浅井巳之助(以下「巳之助」という。)であるかの如く装つて「印鑑を紛失してしまつたので、新たに印鑑証明書を取りたい。」旨申向けて、右職員から印鑑登録証亡失届、印鑑登録申請書及び印鑑登録証明申請書の各用紙の交付をうけ、右職員の面前において右各用紙に必要事項を記入したうえ、その申請者欄に巳之助の住所氏名を自署して巳之助の印鑑登録証の廃止をし、同時に持合せの「浅井」と刻した印鑑を用いて印鑑登録をなし、かつ印鑑証明書五通の交付をうけた。
茂は、右印鑑登録申請をする際、右職員に求められるままその面前において、印鑑登録してある私の実印でいいですかと尋ねた上、茂を保証人とする保証書を作成して提出した。従つて、茂は巳之助名義の印鑑登録申請の申請者本人であると同時に右印鑑登録の申請者が本人であることを証明する保証人となるという一人二役を演じていたのである。
2 印鑑証明書は、一旦これが発行されるときは、これによつて財産取引がなされ、印鑑証明の名義人、取引の相手方に財産上重大な影響を与えるものであるから、印鑑証明の事務に携わるものは、印鑑証明書を発行するに際しては細心の注意を払つて印鑑証明の事務を遂行し、誤つた証明をしないようにする義務がある。印鑑証明事務は、地方公共団体の公共事務であるが、その事務取扱いに関しては統一的な法令はなく条例若しくは慣習で処理されるのが通例であり、被告市においては草加市印鑑条例(以下「条例」という。)及び草加市印鑑条例施行規則によりその運用が図られている。
3(一) 条例一〇条は「印鑑登録者は、印鑑登録証を亡失したときは、印鑑登録証亡失届書により直ちにその旨を市長に届出なければならない」と規定し、同一四条はこれをうけて「市長は印鑑登録者が次の各号のいずれかに該当すると認めた場合は当該印鑑を抹消しなければならない。(1)一〇条に規定する印鑑登録証亡失の届出を受理したとき」と規定する。また被告発行の印鑑登録証亡失届書用紙下欄記載の注意事項2には「代理人が届出……をするときは「委任の旨を証する書面」が必要である」旨の記載がある。右の規定からすれば、右職員は印鑑登録者本人(巳之助)からの届出のみを受理し、もし代理人からの届出であれば「委任を証する書面」の提出を求めねばならず、その提出がないときは受理を拒否せねばならないこととなる。このように厳格な手続を要求するのは、前記のとおり印鑑証明事務の財産取引における重要性に起因する。
(二) しかるに、右職員は、巳之助(生年月日大正六年五月五日)が当時満六四歳であり、茂(昭和一四年九月一〇日生)は当時四〇歳であつて届出人が右巳之助と異なることは通常の注意を払えば容易に認識することができるにもかかわらず漫然これを看過し、しかも官公署発行の免許証、許可証又は身分証明書の呈示を求めることなく届出人茂を巳之助本人であると誤認して印鑑登録証亡失届出を受理してしまつたが、これは右職員が印鑑登録証亡失届を受理する際に当然払うべき注意義務を怠つたもので、その過失は大である。
4(一) また、右条例三条によれば印鑑登録申請は本人申請を原則とするがやむをえない事由あるときは「委任の旨を証する書面」を添えて代理人によつてなすことができる旨規定している。
更に、右条例によれば、印鑑登録申請の受理に際しては申請者が本人であるか否かについては重要な注意義務が課され、同五条によれば官公署の発行した免許証、許可証若しくは身分証明書で写真に浮出しプレス等の証印のあるもの若しくは写真を特殊加工してあるものを提示したときに、それにより本人であることを確証すべきものとされ、同条三項二号によれば草加市において既に印鑑の登録を受けている者が当該登録印鑑を押印し、登録申請者が本人に相違ないことを書面で保証したとき(保証書)は右保証書により本人である旨の確認ができる旨規定されている。従つて、本件のように茂が巳之助本人を装つて印鑑登録申請をなしてきた場合は、印鑑証明事務を取扱う職員としては官公署の発行した免許証、許可証若しくは身分証明書等の呈示を求めて申請行為をなしている者(茂)が申請者本人(巳之助)であるか否かを確認するか、又は保証人に印鑑登録申請者が本人であることを保証する旨の保証書を提出させるべきである。
(二) 前述のとおり、当時右申請者本人として申請書に記載されている巳之助は満六四歳の老人であり、現実に窓口において申請行為をなしている茂は満四〇歳であり、しかも巳之助と称する者が茂名義の保証書を作成しているのであるから、巳之助以外の者が巳之助の名を騙つて申請行為をなしていることは一見して明瞭なのである。従つて右職員は、特に入念に免許証、許可書若しくは身分証明書等の呈示を求めたり、或いは申請者本人に相違ないかどうか質問するなどして申請者本人を確認する手続をとるべきであつたのである。
右のような確認の手続を経ていれば茂が申請者本人ではないということが簡単に判明するのであるから、右職員としては、右印鑑登録申請の受理を拒否したうえ、茂を申請者巳之助の代理人として申請させるとともに、巳之助作成に係わる「委任の旨を証する書面」を添付するように指導すべきであつたのである。もし、このように茂を巳之助の代理人として印鑑登録申請をさせた場合には、条例五条二、四項により委任者である巳之助に対し被告より照会書が発送されるため偽造印鑑の登録をしたことが発覚し、偽造印鑑の登録証明書の発行も阻止しえた筈である。従つて、右職員が茂に対し前記のような確認手続をとらず、また申請行為をなした茂と申請者本人の年令差を看過して茂を巳之助と誤認したまま印鑑登録申請を受理した過失はきわめて大きいといわざるをえない。
(三) また右職員は、右印鑑登録の申請者本人の確認の方法として保証書を提出させているが、それも、右職員の面前で茂をして印鑑登録申請書の裏面に印刷されている保証書の保証人欄に茂の住所氏名を記載させ、茂の実印を押捺させているのである。申請者本人の確認方法として保証書を提出させるのは、印鑑登録申請者が本人に相違ないことを第三者に証明させることによつて、申請行為をなしている者と申請書の申請者欄に申請者本人として署名捺印した者との同一性を確認しようとするものであるから、当然、申請者本人と保証人とは別人でなければならないことは自明のことであるにも拘らず、単に形式だけを整えるために同一人に印鑑登録申請書及び保証書を作成させるという、およそ印鑑証明事務担当者としては考えられないようなきわめて軽卒な事務処理をなしたもので、その過失の程度はきわめて大である。
もし、同一人が申請者本人と保証人とを兼ねることができるとするならば、本件の場合のようにいとも簡単に他人の印鑑登録の廃止及び偽造印鑑の登録をなして偽造印鑑証明書の交付が受けられることになり、印鑑証明制度の信用を失墜させ、該制度そのものの存立を危殆ならしめること明白である。
5(一) 原告は、茂が以上のような印鑑登録証亡失届及び印鑑登録申請、印鑑登録証明申請をなして被告職員より交付をうけた印鑑証明書を信頼して、以下に述べるような財産上の取引をなして合計金七〇五二万六八〇四円の損害を被つた。
(二) 原告は、巳之助との間で昭和五五年四月二六日原告を買主とし、巳之助を売主とする要旨左記内容の土地売買契約を、茂を巳之助の代理人として締結した。
記
売買物件の表示(以下「本件土地」という。)
草加市松江町七一八番一
田 979.00平方メートル
同所一九番
田 18.00平方メートル
売買代金 一金壱億三四〇〇万円。
支払方法
(1)昭和五五年四月二六日限り手付金一〇〇〇万円。
(2)昭和五五年五月一〇日限り中間金九〇〇〇万円。
(但し、右中間金支払と同時に売買物件に所有権移転請求権仮登記及び抵当権を設定する。)
(3)農地転用許可後所有権移転登記と同時に金三〇四〇万円。
しかして、原告は巳之助の代理人茂に対して昭和五五年四月二六日手付金として金一〇〇〇万円、同年五月一〇日中間金として金九〇〇〇万円の合計金一億円を支払つた。原告は、右資金調達のため昭和五五年五月一〇日訴外昭和ファクター株式会社から金一億一〇〇〇万円借り入れた。
(三) 原告は、右中間金九〇〇〇万円を支払つた際権利保全のため売買物件について被告発行に係る巳之助の印鑑登録証明書(昭和五五年五月一〇日証第四八〇九号以下「印鑑証明書」という)を用い売買予約を原因とする所有権移転請求権仮登記(浦和地方法務局草加支局昭和五五年五月拾弐日受付第壱参九五六号)をなすとともに、右金員の借入先である訴外昭和ファクター株式会社を根抵当権者とし、極度額金一億一〇〇〇万円とする根抵当権設定登記(浦和地方法務局草加支局昭和五五年五月拾弐日受付第壱参九五七号)をした。
(四) 以上の原告の売買代金支払は、巳之助の印鑑証明書を信用してなされたものであるところ、昭和五五年五月一六日巳之助が加藤長昭弁護士を同道して原告方に来訪し、「おたくの会社は松江町の土地を買つたといわれているようだが、あれは茂が無断でやつたもので、自分は売却したおぼえがない」「仮登記及び根抵当権設定登記を直ちに抹消してほしい」と申し出てきた。原告の社員が驚愕して茂から受領していた昭和五五年五月一〇日付の「浅井巳之助の印鑑証明」を見せたところ、それは茂が巳之助に無断で同人の印鑑登録廃止届をしたうえ、手持の印鑑を用いて再度巳之助名義の印鑑登録をして印鑑証明を入手したとのことであつた。
そして茂に事情を聞いたところ、右事実が判明した。
(五) そして、昭和五五年五月巳之助から原告らに対し、前記所有権移転請求権仮登記及び根抵当権設定登記は、登記原因を欠く無効なものであるから抹消せよとの訴が浦和地方裁判所越谷支部に提訴されるに至つた(事件番号昭和五五年(ワ)第一二八号)。右事件では茂の証人尋問後、和解手続に入り原告らは巳之助に対し、身内の者から犯罪者を出さないようにするためにも前記土地の売買契約を追認するか、或いは原告の被つた損害を填補するため和解金を支払うなどして事態を円満に解決するよう種々説得を試みたが、巳之助が頑として応じなかつたため、やむなく昭和五六年九月四日原告らと巳之助との間で、原告らが前記所有権移転請求権仮登記等の抹消に応ずるのに対し、巳之助は、茂が株式会社協和銀行鳩ヶ谷支店に巳之助名義でなした定期預金三〇〇〇万円及び普通預金六〇〇万円を原告において払戻しをうけても何ら異論を申述べないという、実質的には原告が敗訴判決をうけたのと同視しうる内容の和解を成立させざるをえなかつた。しかして、原告は右和解にもとづき昭和五六年九月一八日協和銀行鳩ヶ谷支店から右定期預金三〇〇〇万円とその利息金一六六万八七一九円並びに右普通預金六〇〇万円とその利息金一八万六四二一円の合計金三七八五万五一四〇円の払戻をうけた。
(六) 右のとおり、原告は訴外浅井茂に対し昭和五五年四月二六日付土地売買契約にもとづき同日手付金として金一〇〇〇万円、同年五月一〇日金九〇〇〇万円の計金一億円を支払つているが、このうち被告発行の昭和五五年五月一〇日付印鑑証明書を信用してなされた支払分は五月一〇日付支払分金九〇〇〇万円である。
ところで原告は、右支払のため五月一〇日訴外昭和ファクター株式会社から金一億一〇〇〇万円を借り入れたのであるが、原告は、訴外昭和ファクター株式会社から右融資をうけたために同訴外会社に対して昭和五五年五月一〇日から同五七年二月二七日までの間に前記支払分金九〇〇〇万円に対して手数料金九〇万円及び利息金一七四八万一九四四円の合計金一八三八万一九四四円を支払つているので、これに茂に支払つた金九〇〇〇万円を加えた金一億八三八万一九四四円が前同日現在において原告の被つた損害であるというべきところ、昭和五六年九月一八日協和銀行鳩ヶ谷支店から金三七八五万五一四〇円の預金元利金(訴外茂が訴外浅井巳之助名義で預金していたもの)の支払をうけているのでこれを右金一億八三八万一九四四円から差引くと金七〇五二万六八〇四円となるが、茂には目ぼしい財産もないので、これが被告発行の前記印鑑証明を信用して茂との間で前記土地取引をなしたことによつて原告の被つた損害である。
6 右損害は、被告市の職員がその職務を行うに際して守るべき注意義務に違反した過失により発行した印鑑証明書を原告が信頼して財産上の取引をしたことによつて被つた損害であるから、国家賠償法にもとづき被告市が賠償すべきものである。
7 よつて、原告は被告に対し回収不能となつた右金七〇五二万六八〇四円及びこれに対する請求の趣旨を訂正した準備書面送達の日の翌日である昭和五七年五月一日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員の支払を求める。
二 請求の原因に対する答弁
1 請求原因1は、昭和五五年五月一〇日巳之助の印鑑登録証亡失届が提出されたこと、同日同人の印鑑登録がなされ、かつ、印鑑証明書五通が発行されたこと及び茂を保証人とする保証書が提出されたとの事実は認めるが、その余の事実は不知。
2 同2の主張は争う。
3(一) 同3(一)は、条例の条文及び届出用紙の記載文言の引用に関する部分は認めるが、その余の主張は争う。
(二) 同3(二)の主張は争う。
4(一) 同4(一)は、条例及び規則の条文の引用に関する部分は認めるが、その余の主張は争う。
(二) 同4(二)は、関係者の年令に関する部分は認めるが、その余の主張は争う。
(三) 同4(三)は、職員の言動に関する部分は不知。その余の主張は争う。
5(一) 同5(一)、(二)の事実は不知。
(二) 同5(三)は、原告主張の如き登記がなされたことは認めるが、その余の事実は不知。
(三) 同5(四)は巳之助及び弁護士加藤長昭が原告方を訪れたこと並びに登記抹消を求めたとの事実は認める。その余の事実は否認ないし不知。
(四) 同5(五)は、原告主張の訴が提起され、その主張の如き和解が成立したことは認めるが、その余の事実は不知。
(五) 同5(六)の事実は不知。
6 同6、7の主張は争う。
7 事実関係に対する主張は次のとおりである。
(一) 原告は、印鑑登録証亡失届、印鑑登録申請書の受理に際し、巳之助が満六四歳であり、茂が満四〇歳であつたから茂が巳之助の名をかたつていることは一見して明瞭であつたと主張する。
しかし、協和銀行鳩ヶ谷支店の行員高島隆義は、茂と面接した際、同人を巳之助と信じて疑つていないし、司法書士の斉藤勲広もまた同様に茂を巳之助と信じて保証書による登記手続がなされているのであつて、茂が巳之助本人でないことを見破ることは決して容易ではないものと考えなければならない。また現行制度では本人確認に際し、年令に注意しあるいは人相風態に着目すべきものとはされていないのであるから、担当係員がこの点について特別の注意を払わなかつたとしても、これを過失ということはできない。
(二) 各市町村の現行の印鑑登録制度は、おおむね、自治省行政局振興課長通達(昭和四九年二月一日自治振第一〇号)として発せられた「印鑑登録証明事務処理要領」に準拠して定められているものであるが、登録申請者の本人確認等について、右通達はつぎのように述べている。
(1) 市町村長は、登録申請者又はその代理人から印鑑の登録の申請があつたときは、当該登録申請者が本人であること及び当該申請が本人の意思に基づくものであることを確認するほか、印鑑登録申請書に記載されている事項その他必要な事項について審査した上、登録するものとする。
(2) (1)の確認は、印鑑の登録の申請の事実について郵送その他市町村長が適当と認める方法により当該登録申請者に対して文書で照会し、その回答書を登録申請者又はその代理人に持参させることによつて行なうものとする。
(3) 登録申請者が登録を受けようとする印鑑を自ら持参して申請した場合において、次に掲げる文書のうちのいずれかのものの提示によつて、市町村長が当該登録申請者が本人であること及び当該申請が本人の意思に基づくものであることが適正であると認定したときには、(2)の方法を省略することができるものとする。
ア 官公署の発行した免許証、許可証若しくは身分証明書であつて本人の写真を貼付したもの又は外国人登録証明書
イ 当該市町村において既に印鑑の登録を受けている者により登録申請者が本人に相違ないことを保証された書面
被告市の印鑑条例第五条は通達の右の引用した部分に忠実に準拠したものである。
条例では、登録申請者が本人に相違ないことを保証する書面は、係員の面前において作成される必要はなく、したがつて、保証者の印鑑が登録されてありさえすれば、保証書を現実に記入した者が何人であるかが問われることはない(確認する方法もない。)。したがって、登録申請者が保証者の印鑑を預かつてきて、係員の面前で保証書を記載することも許容されている。
また、印鑑登録申請者の本人確認の方法は、条例五条に記載されたものに限定されている。係員は、この方法による確認を省略することができない反面、これ以外の方法を用いることもできないのである。従つて、茂が原告の主張するように行為をしたとすれば、現行の制度では、これを防止する方法はない。
(三) また、印鑑証明書とそれに対する印鑑を所持しているからといつて、それのみで、その者が印鑑証明書に記載された本人であると断定することはできないのであつて、法はそのような実態を前提として取引の安全のために配慮を加えている。例えば、不動産登記法三五条一項の「登記済証」の提出がそれである。
三 過失相殺の抗弁
1 原告が茂に対し土地売買代金名下に金員を支払つたことによつて損害を被つたとしてもこれは、以下に述べる如く、原告が不動産業者としては考えられないような重大な過失を犯したことによつて起因するものであり、被告が発行した印鑑証明書とは何らの因果関係もない。また仮にそうでないとしても原告に重大な過失があるので過失相殺されるべきである。
2(一) 原告は、茂自身をも売主として土地売買契約をしたのであつて、土地代金の支払いに際しても巳之助と茂の連名による領収書を徴している。これは茂がくだんの土地について相続に基づく共有持分を有している(巳之助の所有権移転登記は無効)という前提に基づくものであるが、原告がそのように考えた根拠は、単に茂がそのように言つたからというだけに過ぎず、不動産業者としては考えられないような軽率な判断である。
(二) 原告は、茂が巳之助の代理人であつたと主張するが、茂は中間金九〇〇〇万円の受領に際し、本件で問題となつている印鑑証明書とその登録印を持参したのみである。
代理人が真実土地の売却を委任されているのであるならば、その旨を明記した委任状を提出し、かつ、売却する土地の登記済証を提示するのが通常であるのに、本件取引ではこのような行為が全くなされていない。
(三) また、本件の場合、一億三〇〇〇万円余と言う巨額の取引をするのであるから、直接売主本人の真意を確認することが普通であると思われるが、原告は、同じ市内にありながら、これを怠つている。
(四) 本件土地は、現地に、巳之助によつて、「この土地は売り物ではない」旨の立看板が出されていたのに、原告は、これを全く無視して取引をしている。
(五) 本件取引に際しては、土地の登記済証が提出されなかつたから、原告が昭和ファクタリングから融資を受けるための根抵当権の設定登記はできなかつたはずであるのに、原告は巳之助とは全く面識のない白石庸蔵と白石武男の両名に「人違いないことの保証書」を作成させて、これの登記を行なつている。
(六) さらに、原告代表者は、昭和五五年五月一〇日、協和銀行鳩ケ谷支店へ茂を同行するに際し、同人が巳之助になりすましてふるまうべきことを言い含め、同人がそのようにふるまつたことによつて銀行の担当者や斉藤司法書士が茂を巳之助と思い込んでいる状況を利用して、融資の実行をさせている。
(七) また、原告は、松本晋作が持ち込んできた本件土地について、松本が普通の職業の者でないことを十分知つているからには、何か芳しくない事情があるであろうことを察知したはずであるのに、あえて所有名義人に売却意思の確認をすることがなかつた。
四 抗弁に対する答弁
1 抗弁1の主張は争う。
2(一) 同2(一)は、土地売買契約書売主欄に巳之助の記名捺印と並んで茂の署名捺印があること、領収書に巳之助と茂の連名があることは認めるが、その余の事実は否認し、その主張は争う。前者は、茂を売主としたものでなく、茂が巳之助の子供であり、巳之助からすべて任されていると云つたので念のため売主の同一の責任を負担してもらう意味でなしたものであり、後者は、土地代金を現実に受領したのが巳之助の代理人である茂であつたため念のために署名してもらつたものである。
(二) 同2(二)は、茂が中間金九〇〇〇万円の受領に際し、印鑑証明書と登録印のみ持参したことは認めるが、その余の主張は争う。
(三) 同2(三)は、原告が巳之助の真意の確認をしなかつたことは認めその余は争う。
売買契約に際し、茂が「本件土地の権利証は古いから家にはないので、保証書を作つてもらつて所有権移転登記をしてほしい。」旨原告に対し申出たので、原告としては茂自身が以前地元の不動産業者のところで働いており原告と面識があり、しかも茂自身の事務所も右売買物件の近くにあつたこと、茂自身が印鑑を持参したこと、長い間取引のない不動産に関しては権利証が存在せず取引に際しては改めて保証書を作成して取引する例がまま存在するため、本件土地についても永年取引のない物件として別段異とすることはなかつたこと、融資先協和銀行鳩ヶ谷支店に問い合せたところ銀行出入りの司法書士に頼んで保証書による所有権移転登記をすればよいと云われたこと、更には巳之助と茂が親子の関係にあることなどを考慮して右売買契約にあたつたものであつて、原告には重大な過失は存在しない。
(四) 同2(四)は、本件土地に「この土地は売り物でない」旨の立看板が存在したことは認め、その余は否認する。
本件土地のぞばに不動産業者である茂の事務所があり、原告が茂に右立看板について聞き質したところ、茂は「右のような立看板を出しておかないと他の業者が売つてくれといつてきてうるさいので巳之助が立てたものであつて、右立看板があつても売却を委されている物件なので心配ない。」と云つたので不動産取引ではよくある事例なので原告は茂の言葉を信じて右立看板を意に介さなかつたのである。
(五) 同2(五)は争う。
(六) 同(六)、(七)の事実は否認する。
第三 証拠<省略>
理由
一(被告市の職員の過失の有無について)
1 昭和五五年五月一〇日被告草加市役所印鑑証明係の窓口に巳之助の印鑑登録証亡失届、印鑑登録申請書及び印鑑登録証明申請書が提出され、巳之助の印鑑証明書五通が発行されたこと、右印鑑登録申請は茂を保証人とする保証書によつてなされたこと及び巳之助は大正六年五月五日生れ当時六四歳、茂は昭和一四年九月一〇日生れ当時四〇歳であつたことは当事者間に争いがない。
2 そして、<証拠>を総合すれば次の事実が認められる。
(一) 茂は双葉商事という名称で不動産業をしていたが、借金に苦しみ、遂には巳之助所有の本件土地を勝手に原告に売ることになつた。
しかし、茂は巳之助の同意を得ることができなかつたため、同人の印鑑登録証亡失届を出し、新しく同人の印鑑登録をなした上、同人名義の印鑑証明書を入手しようと決意した。
(二) 昭和五五年五月一〇日午前九時頃、茂は被告草加市役所の印鑑証明係の窓口において印鑑証明係の職員から印鑑登録証亡失届、印鑑登録申請書(保証書つき)及び印鑑登録証明申請書の用紙を貰い勝手に巳之助の住所氏名を記入し、印鑑登録申請書の印影欄に自分の所持した浅井の印鑑を押捺して右各書類を偽造し、また右印鑑登録申請書の裏面の保証書に自分の住所氏名を記入し、登録印鑑を押捺して形式をととのえた上、右書類と共に自分の所持する印鑑を巳之助の届出印鑑として右係に提出した。
(三) 右印鑑証明係の職員は、右書類が正しくなされたものと軽信して、右書類、印鑑を受理し、新しく巳之助の印鑑登録をなし、かつ茂の申請するままに巳之助の印鑑証明書五通を茂に交付した。
(四) 巳之助は当時六三ママ歳、茂は当時四〇歳であり、茂はどうしても六三ママ歳とは見えない。また容姿も全く違うので、注意してみれば茂が巳之助になりすましていることに疑を持つ状態である。
右に対し、被告は協和銀行鳩ケ谷支店の行員高島隆義は茂と面接した際、同人を巳之助と信じて疑つていないし、司法書士の斉藤勲広も同様に茂を巳之助と信じて保証書による登記手続をなしているので、その識別は容易でない旨主張する。
ところで、<証拠>によると高島隆義は、茂を巳之助と信じていたものの、巳之助と名乗る人は年令四〇歳位と見ているのであり、同人が茂を巳之助と信じたのは巳之助の年令を十分知らなかつたことからくる誤りであると認められ、また司法書士斉藤勲広が保証書による登記手続をなしていることは<証拠>に明らかであるが、前記採用の証拠に照すと、同人が何故にこのような事をしたのか不思議であり、重大なる過失があるものとも考えられ、前記認定を左右する証拠とはなし難く、その他前記認定を覆えすに足る証拠はない。
3 一般的に印鑑証明は、市町村に対し印鑑の登録または証明の申請をすることができる者を本人に限定していることから、実印と印鑑証明書を所持する者は本人であるとする人格の同一性を確認する手段として、あるいは実印の押捺された文書に印鑑証明書を添付することによつて、その文書が真正に成立していることを担保する手段として用いられ、不動産の登記、公正証書の作成などのほか、国民の権利義務の発生、変更等を伴う行為につき、広く利用されている。従つてその取り扱いにあたつては慎重になされるべきである。
右の点から1、2の事実によると、被告市の職員は印鑑証明の重要性から、茂が巳之助本人として印鑑登録証亡失届、印鑑登録申請印鑑証明申請等をなしたに対して茂を巳之助と認めることに疑問を持ち、特に入念に質問するなどして確認をとり、これを正すべきであつたのにこれをなさず、偽りの印鑑証明書を交付した点に過失があつたと認められる。
右につき被告は、保証書による確認がなされているから十分であり過失はない旨主張し、<証拠>を総合すれば条例五条には被告主張のとおり規定され、場合によつては、原告の主張するような行為をした場合、現行の制度ではこれを防止する方法はないことは認められるものの、条例一九条には、「市長は、印鑑及び証明に関し必要な調査をすることができる。市長は、前項に規定する調査を行うに当たり、必要があると認められるときは、当該職員をして、関係人に対し質問をさせ、又は文書若しくは印鑑の提示を求めさせることができる。」と規定され、前記証拠によつても、合理的な疑いのある場合の必要な調査を否定するものではないので、右主張は採用できない。
そうすると、被告は、国家賠償法一条により右過失により原告の被つた損害を賠償すべき義務がある。
二(原告の損害について)
1 <証拠>を総合すれば、請求原因5(二)ないし(六)の各事実が認められる。右認定を覆えすに足る証拠はない。
してみれば、原告は、前記一の被告市の職員の過失によりなされた偽りの印鑑証明書を信用して右損害を被むるに至つたものと認められ、因果関係あるものと言わなければならない。
三(原告の過失について)
<証拠>を総合すれば抗弁(二)ないし(七)の事実並びに次の事実が認められる。
原告代表者は、本件の取引につき原告側の担当者として取引をなしたものであるが、同人は、昭和四六年から個人企業として不動産業を始め、昭和四九年九月に株式会社に発展して代表者となつたものであり、不動産業界に通じているものである。従つて、不動産取引においては、印鑑証明は重要なものではあるが絶対的なものではなく、時として無権原の者が、これを乱用して他人の不動産を処分したり、担保に入れて金を借りたりすることも十分承知している筈である。またそれを防ぐためには十分権利者の意思を確めたり、権利証を使用して登記するなど法律で定められた手続を遵守する必要があることも承知している筈である。
また、抗弁2(一)は争いのない部分を除きその余の事実はこれを認めるに足る証拠はない。
また、抗弁に対する答弁四2(三)、(四)記載の原告主張の事実は、これにそう原告代表者の供述もあるけれども前記採用の証拠に照して直ちに採用し難く、仮に右事実が認められるとしても、原告の過失を否定するに足る有力な事実とは言い難い。
右認定を覆えすに足る証拠はない。
右の如き事実を考えると、原告の本件取引は業者としては全くずさんであると言うの外はない。そして原告にも右認定の如き重大な過失があり、その過失によつて、被告市の職員の過失につき因果関係を全く否定されるものとは認められないとしても、過失相殺されるべきである。
四以上の事実を総合して考察すれば、被告市の職員の過失が本件損害の発生に寄与した割合は二〇パーセントと定めるのが相当である。
そこで右過失割合に従つて被告の賠償すべき損害額を算定すると、金一四一〇万五三六一円(円以下四捨五入)となる。
また、請求の趣旨を訂正した準備書面送達の日の翌日が昭和五七年五月一日であることは記録上明らかである。
五以上の事実によると、被告は原告に対し金一四一〇万五三六一円及びこれに対する昭和五七年五月一日から支払ずみに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。
よつて、原告の本訴請求は右の限度において理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九二条を、仮執行の宣言について同法一九六条を各適用して主文のとおり判決する。
(三宅純一)